直前のブログを書いたのが、11月4日。あっという間に年が改まってすでに2月も半ば。
滞っていた更新をボツボツ再開しようと思う。
11月7日、9月初頭に肺炎を起こして入院していた義父が身罷った。入院してすぐと身罷る前日にようやく見舞いに行った私だった。入院してちょうど2か月目のことだった。この間、2~3回「危ない」と兄弟が病院に呼び寄せられたがその都度持ち直し、大正生まれの頑張りを見せつけられた気がした。
93歳という年齢を考えれば何があってもおかしくない。
このことがあったから、「義父を見送る」ことが現実として考えられたし、受け入れられたので、これは義父の心遣いだったかもしれない...と、今は思う。
その月の末だったか、父の主治医から実家の母に「話がある」と言われたと、電話があった。
入院当初は、話すこともできたし食事は経口食で、自分で起き上がったりもしていたが、秋口あたりから、酸素マスクがかけられ誤嚥の恐れがあるということで、点滴だけになり水を飲むことさえ許されなくなった。
このあたりから、目を覚ましていても焦点が定まらずうつろな目で病院の天井を眺めている日が多くなった。
今後の医療方針を告げられるのだろうということで、私も同席することにした。
医師の話では、病状はいよいよ厳しく、自力呼吸ができなくなったときにどうするかを尋ねられた。いわゆる人工呼吸器を取り付けるかどうかということである。
介護をしているのは病院と母である。母の選択に任せることにした。
その時点では、母は医師が脅している...くらいにしか受け止めていなかったようで、いつ来るかわからないその時も、きっと父は生きていたいだろうから、と人工呼吸器の使用をお願いした。
「人工呼吸器つけて、85まで持ってくれるといいねぇ...」
病院の駐車場で、車に乗りながら母は言った。母のつもりでは、人工呼吸さえつければ父の命が維持できる...はずだった。
医師と話をして、終末期の意思決定を確認しあった日から、わずか1週間後。
唐突に父は亡くなった。80歳だった。
かねてから母と相談していた通り、両親と私の関係者には一切そのことは知らせず、母と私の家族と4人だけで父を見送った。
電話でやり取りをしていた時には、酷くぞんざいに感じた地元の葬祭業者も、実際に会って打ち合わせなどを重ねていると、実にハートウォーミングな仕事をしてくれる人たちだった。
母が「私の時もあそこでお願い」と最近よく口にする。
先週、四十九日の法要を終え、来週は納骨。
ようやく人心地つくのかもしれない。
母は一人で(明るい)老後を歩き始めた。



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