Easy Go Lucky!

2010年2月アーカイブ


 

まだ読み終わっていないけど。

いつかは通る道ではあっても、自分の親だけは病気にならないし、ましてや死ぬようなことはほとんど頭にない。

それが、父が脳こうそくを患い、解離性動脈瘤を患い 介護認定されたり、入退院があったりと、今まで現実とは思っていなかったことが、どんどん現実として 身に迫ってきていた。

それでも、実家は離れているし、母が元気で父の世話は「一人で大丈夫」と言ってくれていたので、すっかり甘えていた。

その父が急逝した。
母が周到な人だったので、それはもうしばらく前から、 「あれはここ」「こういうときは○○に連絡して」と
帰るたびに、まだ元気でいる父や母の葬式の段取りを 聞かされていた。

おかげで、母と二人あーでもない こーでもないといいながら、家族だけの葬儀、家族だけの 法要と、少しずつ片付いてきた。

母がしっかりしていたからよかった。
でも、今度はその母をいずれは見送らないといけない。
その時にどうすればいいのか...
年を重ねると、一人っ子だったことはどうでもよくなるものだけど、さらに年を重ねると、ちょっと恨みたくなる。

そんなときに、生協のカタログの中に入っていたこの本。
出会うべき時に必要なものに出会うものだと感心している。
作者もまた、一人っ子である。
16年間、子育てと仕事と介護を体験した中での、知恵や ノウハウが詳細に書かれている。

終末医療とは、延命治療の功罪...
現実の介護や葬式と社会通念とのギャップ。

辛かったこと、よかったこと、うれしかったこと。
そんなことを資料付きで教えてくれる良書だ。

新しく買うことになった仏壇のことで、あれやこれやと迷い、「引き取り手のない仏壇」になることまで憂う母に 「私が引き取るじゃない、大丈夫だから好きなのを
買えば」と言った瞬間に、「私しかいない」ことを 改めて痛感し、腹をくくった。

「一人でもだいじょうぶ」

Cメール

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母が携帯を買い替えた。普段持って歩かないから、もう買うのはやめたら?と話していたが、「歩数計付き携帯」を購入したそうだ。

前の携帯もメールができたのに、「覚えるのがイヤ」とのたまって頑なにしようとしなかった。いや、持って歩くことすらしなかったので、無用の長物だった。
それが、何を思ったか電池パックが切れたのを機に、買い替えて歩数計が付いているから歩く気になったというし、メールができるならしようかなぁ...とも言いだした。

私は、教えることを仕事にしているが、家族にそれをするのはちょっと避けたい気分で、「教えてぇ」と持ってこられたときはどうしようかと思ったのに、この携帯がすこぶるわかりやすい。

ボタンが色分けしてあって、ディスプレイに同じ色でコマンドが書かれているので対応するものを押すだけでいい。文字入力も、最初からかなりの数の予測変換候補が出てくるので、「あいうえおぁぃぅぇぉ1」と何度も推すことを考えて、イヤな気持になっていたのが払しょくされた。
同じキャリアの携帯なので、オプションを払うEメールでなくてもCメールのほうが手軽だと思ったので、Cメールの送受信の仕方を教えて帰ってきた。

1日目は予測変換にあった「お疲れ様」から始まって、2日目は「おはよう、いい天気だね」、3日目は「メールの練習に来ています」(ショップで入力の仕方を教わっていたらしい)、4日目は「今日は歩きます、返事無用」ときて、その日の夜には「1万歩歩きました。おやすみなさい」だった。

目を見張るほどの上達ぶりで、内心「やるな、かぁちゃん!」とつぶやいている。
今日はメールがなかったが、そろそろ飽きたか?(笑)

毎日、こうしてメールをくれれば「どうしているか?」と気を揉まずに済むのでしばらく頑張ってほしい。
もっとも、来なければ来ないで心配することになるので、どっちもどっちか。

ところで、こんな簡単な携帯。ヒジョーに夫向きだと思うので「どう?」と言ったら「ヤダ」と即答だった。

受信したメールはそのまま返信すればいいのに、なぜかいつも件名変えて新規で送ってくるし、アドレスの登録は「やっといて」だし、固定電話のリダイヤルや電話帳は、使い始めて10年経ってもまだ覚えないし。
人の手を煩わせることは良くて、なぜ、カンタン携帯がいやなのか、ちょいと問い詰めたい気分。

あぁ、昨日はこの人の「仕事にならん!」がきっかけで、1日彼のPCのメンテで潰れてしまったことを思い出した。その話は、また後日。
夫の会社の人に、私の職業は内緒だ。

再開

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直前のブログを書いたのが、11月4日。あっという間に年が改まってすでに2月も半ば。
滞っていた更新をボツボツ再開しようと思う。

11月7日、9月初頭に肺炎を起こして入院していた義父が身罷った。入院してすぐと身罷る前日にようやく見舞いに行った私だった。入院してちょうど2か月目のことだった。この間、2~3回「危ない」と兄弟が病院に呼び寄せられたがその都度持ち直し、大正生まれの頑張りを見せつけられた気がした。
93歳という年齢を考えれば何があってもおかしくない。
このことがあったから、「義父を見送る」ことが現実として考えられたし、受け入れられたので、これは義父の心遣いだったかもしれない...と、今は思う。

その月の末だったか、父の主治医から実家の母に「話がある」と言われたと、電話があった。

入院当初は、話すこともできたし食事は経口食で、自分で起き上がったりもしていたが、秋口あたりから、酸素マスクがかけられ誤嚥の恐れがあるということで、点滴だけになり水を飲むことさえ許されなくなった。
このあたりから、目を覚ましていても焦点が定まらずうつろな目で病院の天井を眺めている日が多くなった。
今後の医療方針を告げられるのだろうということで、私も同席することにした。

医師の話では、病状はいよいよ厳しく、自力呼吸ができなくなったときにどうするかを尋ねられた。いわゆる人工呼吸器を取り付けるかどうかということである。
介護をしているのは病院と母である。母の選択に任せることにした。
その時点では、母は医師が脅している...くらいにしか受け止めていなかったようで、いつ来るかわからないその時も、きっと父は生きていたいだろうから、と人工呼吸器の使用をお願いした。

「人工呼吸器つけて、85まで持ってくれるといいねぇ...」
病院の駐車場で、車に乗りながら母は言った。母のつもりでは、人工呼吸さえつければ父の命が維持できる...はずだった。

医師と話をして、終末期の意思決定を確認しあった日から、わずか1週間後。
唐突に父は亡くなった。80歳だった。

かねてから母と相談していた通り、両親と私の関係者には一切そのことは知らせず、母と私の家族と4人だけで父を見送った。
電話でやり取りをしていた時には、酷くぞんざいに感じた地元の葬祭業者も、実際に会って打ち合わせなどを重ねていると、実にハートウォーミングな仕事をしてくれる人たちだった。
母が「私の時もあそこでお願い」と最近よく口にする。

先週、四十九日の法要を終え、来週は納骨。
ようやく人心地つくのかもしれない。

母は一人で(明るい)老後を歩き始めた。

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